昭和53年10月5日 朝の御理解 中村良一
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり、力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受ける事ができるぞ。」
一年まさり代まさりのおかげを願わぬ者はありませんが、なかなか、代まさりにならない。親の代では、おかげを受けておった者でも、子供の代になると、信心を絶ったりしてしまう。なかなか難しいことである。過去、百年の御道の信心を思うてみて、この御教えの通りに、おかげを受けておる教会、信者が、どのくらいおるだろうか。そうすると、教祖様の、この御教えというものは、あー、あんまり信用が出来ないことになる。どういうところから、んー、そういう事になって行くとか、ここには、はっきりと、神の大恩を知らぬからと。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくると。信心して、神の大恩を知れば、無事達者で、子孫も続きと。そこで問題は、この神のおかげであると同時に、神の大恩である。御道の信心を頂いて、ね。神のおかげを知らん者はなかろう。また、神の大恩も聞き、そして知っておるのです。だから、今までのような知り方。今までのようなとらえ方、おかげのとらえ方、ね。神の大恩では、だから、ここに教祖が仰る、いわゆる、家繁盛、子孫繁盛という事にはならないと、先ずは、だから思わなければならない。まあ、いうならば、今までの金光教では、それはもう、不可能に近いほどしのことであったという事になるのじゃないでしょうか。というて、私は、教祖様が、ね。嘘を仰っているとは思われない。だから、教祖様の言われる通りに実証するという事。実際に、なるほど、子孫繁盛家繁盛のおかげの頂けれる証を、銘々が立てさせて貰う、それにはほんなら、今までの金光教では、駄目だという事になるのじゃないでしょうか。この辺のところに、私は、あー、その、大きく目を開かなければ駄目だと思う。今までの、いうならば、ずるずるの、まあ、ずるずるべったりと言いますよね。続いては来た。けれども、ほんなら、教祖が仰る、子孫繁盛家繁盛になってない。ね。神の大恩も、ね。分かったつもりであるし、神のおかげも頂いて、やはり、神のおかげと言うて来たし、知っておるけれども、ほんなら、今までの程度の知り方。今までの金光教で、教えられた事では、駄目だという事になるのです。ね。私は、ここんところへですね。まあ、この合楽教会の、その、これから神様のご期待にそえる教会として、発展していくならば、ここんところを、私は、全部、その、今までの金光教から、いうなら、新しい金光教へと脱皮、いうならば、流れが変わると言われるほどしの合楽の信心。まあ、いうならば、合楽理念。ね。どこが違うかと。
私は、昨日も、んー、昨日は神愛会でしたから、えー、この前の公開講演の、おー、ビデオを見ていただきました。そして、私、初めて、あれを聞きながら、ずっと箇条書きに、一時間二十分にわたる、いうならば、短い講演ですけれども、その中にです、新しい金光教。新たな金光教。私は、あの話を聞かせて頂きながらですね。みんなで聞きながら、思うた、思われただろうと思うけれども、今まで、金光教の講演とか、お説教とかというものとは、大変、この異質であったと思われるほどしに違ったお話。合楽の人達は、何時も聞きつけているお話ですから、ね。そんな事は、あー、あの感じないでしょうけれども、もう、合楽を知らなかった人達が聞いたら、変わったお話だなぁと。それでいて、やっぱり確かに金光教の信心だなぁと。そして、なるほど、金光教は、こんなに素晴らしいんだなぁというふうに、まあ、私自身が、聞けば聞くほど、そこが分かっていくんですから、みんなも分かっていかれるのじゃないかというふうに思うんです。これからの金光教は、今度の、私、公開講演で申しました。もう一つ、それに、かてて加えて言うならば、あー、初日の日の、青年教師に対する講演です。これを二つ合わせていただかせていただいたら、確かに、金光教の流れが変わるだろうと思うです。しかも、それにはね、もう間違いない、一つ一つに実証があるということです。おかげの実証が。ね。だから、合楽の信心というのはね。それほどしの内容を持っておるのですから、ね。それがいただけ、打ち立てられて、初めて、いわば、教祖が言われる、神のおかげを知るという事になるのであり、神の大恩が分かるというのは、合楽的見方、合楽的分かり方、ね。合楽的悟りでなからなければならんという事になるのじゃないかと思うんです。また、そうならなければならんです。教祖は、なるほど、嘘は仰ってはなかったなと。ね。大阪の、青年教師の方が、一番初めに、まあ、私、そん時は、えー、泊りがけで十名あまりでしたかね。信心実習という事で、えー、まぁ、見えたんですけれども、ね。そん時に、まぁ、それこそ、密談です。私と先生方の、その密談の中で、ね。もう、実際言うと、まぁ、日本中にゴヒレイの立つ教会が、こうやって、指折り数えると、やっぱり、四つ五つあります。けども、どの教会でも、もう、頂点にいっとるのですから、もうこれは、下るよりほかに無いという見越しを付けている。ね。その中に、合楽教会が、まだ上昇中だと。「それでも、先生、貴方がもし、亡くなられたら、どうなるか」という質問であった。「さぁ、そら私が、死んでみにゃ分からんばの」と、私が言いましたけど。はっ、けれどもね、ね。合楽に、ほんなら、合楽理念がある限り、また合楽理念が行じられる限り、ね。教祖が仰るように、必ず、親の代よりも子の代と、繁盛していくことを、私は信ずると言うて、合楽理念を語ったわけです。ね。だから、まぁだ、一切は、私が死んでみなきゃ分からん。だから、ここはほんなら、私の子供達が、合楽理念の、本当に行者としての信心を体得させて貰うて、しかも、ほんならここで、えー、それが、まぁ、キャッチフレーズのように言われておりますよね。信心はもう、楽しゅう、有難う、ね。しかも、愉快にまでなれれる手立てがあるんだと。合楽理念は、それを説くんだと。成そうと思えば、成そうと思えば誰でも出来るんだと。頭の良いとか悪いとか、そんな問題じゃない。実意丁寧神信心と言うても、ね。なそうと思えば、子供でもなせる。「成せばなる、成さねばならぬ何事も、成さぬは己がなさぬなりけり」と、いう歌があるが、ね。それこそ、成せば、子供でも成せるようなところを、今までの過去の信心では、おろそかにしてきた。ね。そこん所を、いうならば、目ごもう、目を信心の体得をするならば、これは、私が死んで見なきゃ分からんのだけれども、子孫繁盛家繁盛が約束されると私は思うと言うておりましたけども、もしその、合楽理念を行じてです。子孫繁盛家繁盛にならなかったら、本当に教祖様は、嘘仰ったという事になるんです。何故って、ほんなら、合楽理念を持って行ずるならばです、ね。言うなら、教祖様が仰っておられる通りのおかげを、実際に現しておるから言えるのです。ね。天が下に他人と言わなきことぞと言われてもです。他人同様の、取り扱いしかしてこなかった、金光教は。ね。ところが、合楽理念を持ってするとです。世界中の、いうならば、人間がです。黒であろうが、白であろうが、きなであろうが、合楽理念の恩恵に浴することが出来る。おかげを頂くことが出来るという実証をしていっておる。これは、その事だけじゃない。全てが、合楽で頂いてきておるおかげというのは、教祖様のお言葉の、いうならば、裏づけであり、実証なのです。ね。ですから、この御教えだけが実証出来ないという事はない。いうならば、合楽理念がある限りという事になるのです。ね。私どもが、今まで、神の大恩を知ったと言い、神の、神様のおかげを知ったと言い。それはね、ただ、いうならば、常識的な意味で知ったという事に過ぎんのです。金光教の信心は、どこまでも常識的ではいけんのです。今までは、昨日か、一昨日のお話でありましたけれども、道徳とか常識的な雰囲気を多分に持っておったのが、過去の金光教だという事。だから、ある場合、常識が外れておる。ある場合には、不道徳のように見えるかも知れん。けども、それは、どこまでも超道徳であり、超常識でありという風に、まぁ、合楽の信心を説いております。ね。そういう信心から、分からせてもらうところの、神のおかげであり、神の大恩でなからなければならないという事になるのです。ね。皆さん、ね。自分の代よりも子供の代に、どうでもと思うでしょう。そのためには、本当にお徳を残してやっときたいと思うでしょう。けれども、合楽理念を踏んまえての、いうならば、神様のご信用というか、ね。それは、あー、はぁー、なかなか辛抱強かと、ね。はぁら、もう、人の真似んごたる行が出来たと、だから、その点だけでは、神様が信用なさって、神様の信用がそのままおかげにも繋がってきた。はぁーもう、眼力が強いから、もう、あげん眼力の強かもんはおらんというて、その眼力だけで、ほんなら、神様がご信用を下さって、御徳を下さっておる。そのお徳では駄目だという事。ね。そういう意味合いで、非常に範囲が広いです、合楽でお徳を受けるという事は。
私は、昨日、えー、その、公開講演を聞きながら、あー、十カ条ぐらい箇条書きに。この講演の内容というか、その、分かってほしいという事は、ね。今まで、いうならば、今まで、御道の信心で分からせようとしたところと。分からせようとする、その焦点が、全然違うという事を、改めて気付いたんです。ね。ですから、あー、私は、誰かのあれを手帳に走り書きに書いたのがありますから、また何時か、その、読んで貰いましょうけれども、ね。だから、私が言いますところの、天地の大恩であり、神のおかげで、合楽理念そ通しての、その見方でなからなければ、子孫繁盛には繋がらない。親の代よりも子の代という風には繋がらない。という事を、改めて、再認識させてもらわなきゃいけない。そして、いよいよ持って、合楽理念を通してみるところの神のおかげ。合楽理念を通してみるところの神の大恩。ね。ここで、ならそれを、言えれることは、なら、過去百年の信心を見てきて、果たして、代まさりにおかげを頂いておるという、いうならば、教会信者が、もう至って少ない。ね。これは、金光教にとって、こんなに淋しいことは無い。けれども、合楽で頂いておる御教えが、ね。合楽、まぁ、いうならば、合楽理念性が、合楽理念という事になるでしょう、本当は。ただ、合楽理念を簡単に、一枚の紙にこう、ガリ版刷りにして、合楽理念とはこうこうだと説いて、箇条書きにしておる。まぁ、それだけの簡単なことのようですけれども、実際はやはり、えー、合楽で、日々説かれる、御教えそのものが、合楽理念だとこう思うんです。ね。ですから、私はここに、大きくね、思わなければならない事は、その合楽理念を通しての、大恩であり、おかげであるというところをです。一つ、分からせて貰うて、ね。いよいよ、子孫繁盛家繁盛のおかげに、ね。子に孫に伝わるようなおかげを頂きたいと思うです。ね。
これは、お徳という事よりも、ね。えー、合楽理念を持ってすると、ほんなら、御神徳というほどしのものまで頂いていないでもです。合楽理念による助かりというものが、伝えられていったら、ね。なら、親は徳受けちゃったばってん、子供も御神徳受けなさったというような事は、なかなか、そこは難しいことだと思うんです。ね。だから、その御神徳が、例えば、残らなくても、合楽理念が残れば、私は、いわば、家は繁盛するだろう、子孫は続くだろうというふうに、今日も、そこん所を、改めて、こう頂いた気がするんです。それも、今度の大阪での、講演会の話を聞いて、改めて、そう感じて、えー、昨日からおりましたら、七十八節を頂きましたから、ね。なるほど、こう見てみると、教祖様はそう、はらぁ、神の大恩を知ってあったどこじゃない。おかげも十分知ってあったと言うても、ほんなら、続いて無いという事実があるから。今までの金光教による、言うなら、神感というか、ね。おかげ感というか、というものではいけない、ね。あまりにも道徳であったり、的であったり、意表的なところでとらえた大恩であり、おかげであったんだ。ね。どうでも、合楽の抜けた一つの、そこを超えた、言うならば信心によって、それを把握したとき、大恩を、ね。または神のおかげを。ね。それが、私は、子孫に残るんだと。ほんなら、これもまた、今、私が申しますように、ね。私が死んでみなきゃ分からんという事になるんですけれども、ね。もし、いうならば、あー、私が言うておる事が。あげん言いござったけど、やっぱり、二代が、三代に、段々寂れていったという事になるとです。いよいよ、教祖の神様の御教えというものは、ね。芯をもう、薄くしてしまう。芯をなくしてしまうことになる。ね。教祖の神様の御教えを、いよいよ、本当だと実証し得るのは、合楽で、みっちり合楽理念を行じていく人達によって、その神の大きな願いというものが成就するんだろうというふうに思うです。どうぞ。